高倉良生ストーリー

高倉良生はなぜ政治家を志したのか。高倉良生の原点をご紹介します。

幼少期

高倉良生は1957年、茨城県日立市に6人兄弟の長男として生まれた。
両親が離婚し、母が女手一つで育ててくれたので母子家庭の大変さは身に沁みて分かる。
更に、“良生”とは“人のために良く生きる”との願いが込められており、母の口癖は「人様のお役に立つ人間になりなさい。」だった。

野球部

中学生から野球部で白球を追う日々を送った。
中学時代の忘れられない出来事は、後に読売巨人軍で活躍した同世代の怪物・江川卓投手からヒットを打った事。江川投手は、やはり当時から剛速球で、中学生がヒットを打つのは至難だった。
その江川投手からヒットを打ったことは未だに忘れられない出来事だ。
努力家の高倉は勉強も人一倍の努力をし、名門、茨城県立水戸第一高校に進学。
硬式野球部に入部すると、守備は足の速さを活かしたセンターで甲子園を目指した。

胃潰瘍で入院

高校卒業後、創価大学を経て公明新聞の記者に。
元々胃が弱かったこともあったが、全国を取材で飛び回ることで体は悲鳴を上げていた。
30歳の頃に重度の胃潰瘍で入院し胃を4分の3切除。
リハビリも含めて2ヶ月ほど入院。
ラジオから聞こえてきたハングル語講座に、ただ寝ているだけでは勿体ないとハングル語の勉強をした。
回復し職場復帰したものの、翌年には腸閉塞を発症し再び入院することに。

マラソン

長期入院後は大分痩せてしまい体力も落ちた。体力を戻すためにウォーキングを始め、友人に誘われて山登りも始めた。一度やると決めたら結果を出すまで突き詰める性格からか、日本山岳会の会員にまでなった。
更にマラソンにも挑戦、2008年には東京マラソンを完走できるまでに足腰も強くなった。

震災

1995年1月17日、高倉の人生を大きく変えることになる出来事が、「阪神淡路大震災」が発生。
震災後しばらくして、公明新聞記者として現地に取材に行った際、神戸市役所の部屋の隅で小さな女の子がどうしたらよいか分からず立ちすくんでいた。その姿を見た時に、いてもたってもいられなくなり、取材を済ませ、そのままボランティアスタッフとして登録、支援活動を手伝った。
当時、市役所内の大きな部屋には遺体が安置されているような殺伐とした状況だった。

政治家を志す

この時高倉は、大規模な自然災害への備えが不十分であったことを痛感。
政治や行政が防災に対してもっと取り組めることがあるはずではないか、被災された人々を守るためにもっともっと支援の方法を充実させていかなくてはいけないのではないか。
自分でも何か行動を起こさなければならないと思った。
このことが高倉を政治の世界へと向かわせるきっかけとなった。

政治家として

1999年4月に中野区議会議員選挙に初当選。
2005年都議会議員選挙に当選。
高倉は、区議に初当選してからの22年間(区議6年、都議16年)で多くの実績を残してきた。その原動力は母から受け継いだ “人の役に立つ” “人のために良く生きる” との心。

若者も、子育て世代も、高齢者も、障害のある人も、そしてペットも、誰もが安心して安全に暮らせる街・東京を、中野を作りたい。
住民相談25,000件、その声から一つ一つの政策が生まれた。
“あなたの声をカタチにする”
あなたのために高倉良生は働き続けます!